導
教室の窓から空を見た。薄い靄のかかったそのブルーを……。
いくら手を伸ばしても届かない場所に、それは在るのだろうか。
いくら望んでも叶わない声を、何故心は求め続けるのだろう。
死んだ赤ん坊の魂はとうに旅立ってしまった。僕はその空白に入り込んで命を燃やす。そこはあたたかく、安全な隠れ蓑だった。そこで99.9%の記憶を凍結し、しばらくの間、制約された命を生きる。時に違和感を覚えながら……。
不自由さの中で手に入れた自由。集団の中ではいつも、何かの声を聞いた。そこに動き回る者達や物質を観察する。友人は作らなかった。寂しくなかった。しかし、教師は友達を作るようにと説得した。その中には子どもや大人。男や女。好きな人間も嫌いな人間もいた。彼らは皆未熟だった。僕も未熟だった。
そう。僕は僕だった。女の子ではなかった。でも、僕は女の子の身体に生まれた。赤いランドセルが嫌だった。黄色い傘も嫌いだった。僕は僕で在りたかった。けど、固く閉ざされた記憶は戻って来なかった。
僕はその時、酷く疲れていた。僕は傷付き、何かが欠けていた。長い休養が必要だった。だから、ここに留まっていた。
「原子とは、物質を構成する最小の単位のことである」
高校の時、化学を担当する教師が言った。それは間違っていると僕は思った。原子よりも小さな素粒子。そして、この星ではまだ発見されていない最小で最大の……。
一瞬だけ過ぎた記憶……。
僕は何故ここにいる?
机に置いた手を透かして見た。生物としてのそれ。物質としてのそれ。抽出された紛い物の手。そこに観念として表在している形は今ここにない僕の記憶と同じ物で出来ている。僕の思考がそれを表している。思考を止めれば、それは存在しなくなるのだ。僕の影と同じように……。
僕はいつも、教室の窓から、空を見ていた。薄く靄のかかった心を……。
休み時間。少女達のお喋りは、異性やアイドルやおしゃれのこと。少し離れて僕は本を広げ、2次元を思考した。
「その本、そんなに面白いの?」
ある日、一人の少女が近づいて来て訊いた。
「そうだね。本なら、どんな物でも面白い」
それから、僕はその少女と友達になった。
彼女は天文部で、星の観察をするのが好きだと言った。
「星に興味ある?」
その子が訊いた。
「そうだね。宇宙は懐かしいと思う」
そう答えると、彼女は真剣な顔で頷いて見せた。
「きっとさ、人類は宇宙から来たと思うんだよね。どこかわからない遠い星から知識を持ってこの星に来た。そんな気しない?」
彼女が言った。
「それは、半分正解で半分不正解だと思うな」
「何で?」
「この星の人間はまだ完全じゃないから……」
僕がそう答えると、彼女は無線機の脇にある機械で信号を打った。
「ねえ、今わたしが何て打ったかわかる?」
彼女が訊いた。
「アイスクリームが食べたいな」
僕が答えると、彼女は笑って僕の腕を引っ張った。
「そんじゃ、食べに行こう!」
他愛もないお喋りが楽しかった。彼女になら、話せるような気がした。僕とブルーノートのこと……。
だけど、そんな機会は訪れなかった。アイスを食べながら、彼女が口にしたのは遠距離恋愛中の彼氏のことだった。
「それで、今は時々しか連絡が取れないっていう訳。だからさ、わたしも早く卒業したい。そしたら自由だからね」
「卒業したら結婚するの?」
「わたしはそう思ってるんだけど、そればっかしは相手次第だね。あいつもまだ21だし、任期もまだ残ってるし……」
彼は井戸掘りの海外ボランティアをしているのだと言う。
「星の見方教わったのもあいつだったんだ。だからさ、毎晩星を見るんだよ。きっとあいつも同じ星を見てるんじゃないかなって思うと何か心が通じてるみたいな気がするじゃん」
「そうだね」
僕は最後に残ったアイスを口に入れた。甘くて冷たいその味を噛み締めて、彼女の横顔をじっと見つめた。
彼女が打ったモールスの意味は……。
――あなたが好き
それは誰に宛てた信号だったのか、僕は訊かなかった。
ただ、穏やかに散って行く光の粒子。そして、今もそこにあるだろう星々を思った。
卒業式。手渡せなかった思いは1冊の本。彼女は花嫁になれただろうか。
井戸は人々のオアシスになれただろうか。
卒業文集には皆の夢が綴られている。けれど、僕はそこにも偽りを書き残した。
制服を脱いでも、僕は僕になれず、隠しきれない違和感が胸の奥で膨らんで行く。
見上げた星のいったい何処に僕の故郷はあるのだろう。この星に囚われてから、この身体に宿ってから、もう随分経つというのに、僕はまだ馴染めないでいる。
本を読み、創作し、2次元で遊ぶ。ふとしたはずみで思い出すかもしれないから……。そうして、僕は空を見上げる。夜と薄いブルーの間を……。そこを渡る星と人間の思いを……。
――きっとさ、人類は宇宙から来たと思うんだよね。どこかわからない遠い星から知識を持ってこの星に来た。そんな気しない?
時が過ぎ、また4月になった。風に舞う桜の花びらの下。ランドセルをしょった子ども達が賑やかに校門に向かって駆けて行った。
「おはよう!」
青いランドセルをしょった女の子が僕に笑い掛ける。
「おはよう!」
僕もその子に笑い掛ける。それから、桜の道をゆっくりと散歩する。
もう遠い記憶だけれど……。
人から人へ、時代から時代へ渡り歩きながら、今も封印された鍵を探している。遙かブルーノートへ続く導を……。
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